第1回 「こころの栄養“学”」を始めるに当たって
このたび温香堂鍼灸整骨院院長高口君のご厚意によって、温香堂鍼灸整骨院のホームページに登場することになりました。まずは写真を見てください。
結構いい青年でしょう。年齢不詳としておきますが計算すればすぐばれてしまいます。心ある方は計算をしないで下さると信じます。
まずは20回シリーズで「こころの栄養“学”」を語ろうというのですから、語り部の簡単な自己紹介をいたします。表題に「こころ」とありますようにこれから語るのは「こころ」についてです。その語り部は精神科医、でもこの精神科医、こころ病む人を診察したり治療することもしますが、それは臨床医としての一面であって強面の行政官も経験したという変わり者、それでいて子どものこころの育ちや高齢者のこころの衰えに深く関係してきました。型どおりにいえば沖縄の琉球大学教育学部の教授を務めたことがあるし、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所の所長を務めました。中部学院大学大学院の教授にもなり、いまは清泉女学院大学の学長と清泉女学院短期大学の学長を務めるという変わり者なのです。
この語り部、なにを語ろうとしているか、乞うご期待と言うところですが、誰も見たことのない「こころ」を目に見えるかたちにしてみようと30年、いや50年掛けてきましたので、「こころの栄養“学”」を始めるに当たって、まずは「こころを目で見る試み」のご披露から始めようと思います。
第2回 誰も『こころ』を見たことがない
どなたも「こころは見たことがない」のです。小さな子をもつ親は「子どもがなにを考えているか、みんなわかっちゃう」っていいますが、この子が12、3歳になると「いったいこの子はなにを考えているのやら」と嘆き始めます。この子が小さいときには「ねえ、ねえ、ママ」とすがりつきながら話をしようとしていたのがウソのよう。いまでは声を掛けても「うっせーな」という返事とも言えない返事が返ってくるだけ。男の子も女の子も同じです。
そんなとき「この子の頭を開いてなにを考えているのやら見てみたい」と思われる親が多いのも事実。そうです、誰もが「こころは頭にある」とはわかっているのです。でも、誰もがそのこころを見たことがありません。親しい方に聞いてみてください「こころはどこにあると思う?」って。その方が親しい人であれば「そうね、理屈では頭にあるっていうんでしょうが、胸にあるっていいたいときもある」って言って下さるかもしれません。
私は沖縄にあります琉球大学の教授をしていたとき、「医学的人間学」講義を始めに、学生たちに「こころはどこにあると思うか、指してみて」と切り出しました。すると学生のほぼ7割はすぐさま「頭」を指すのですがあとの3割は逡巡します。この3割の半分、全体の1.5割は結局頭を指すのですが、残りは「胸」を指しました。毎年この授業を開始するときに学生たちのこういう問いかけをしてきたのですがほとんど結果は同じ。やっぱり「こころは胸にある」と考える人がいることが証明されました。
第3回 その脳の働きを見た人はいない
胸を指した1.5割の学生は、何となくきまりが悪そうにしていますがそれでも確固とした考えがあるようなので、私は指名して「なぜ、胸にあると思うの」と聞きました。すると「恋人に会っているときは胸が震える」とか「悲しいときは胸がふさがる」と答え、理屈ではこころは「頭」にあるとわかっているけどやっぱり「胸」にあると考えたいというのです。わたくしはそのことを大切にしてそこから授業を始めました。
そもそも脳の働きを見た人はいません。脳科学者にとっても脳はまだ手探りなの状態です。確かに脳科学は飛躍的に進歩しました。進歩を担ったのはCT(コンピュータ画像診断)やMRI(磁気共鳴画像診断)などですが、脳の働きをこころと結びつけるにはまだまだなのです。簡単に言えば、計算をしてもらうと脳の特定部位がはたらくことがわかっても「2+2=4」と「2×2=4」を区別することはできません。
ましてや脳の特定部位が働くのを見て「そこが悲しみを示す脳の部位らしい」ということが推定できても、恋人を失って悲しいのか親を失って悲しいのか区別はできません。これはあと20年たっても30年たっても明らかにはされないと思います。それだからこそ「なぜ悲しいのか」を知るには人間関係の深さが大切になりますし、顔つきの変化や言葉を交わすことでその人の悲しみの深さを推し量っていくのです。亡くなられた土居健郎先生が「察しの文化」と言うことをいっていますが、わが国の文化に横たわるのはこの「察しの文化」だといってもいいでしょう。
第4回 「こころ」を絵にしてみる
「自分のこころを絵に描いてみる」とどうなりますか。もちろん漫画チックに描いていただいても結構です。こういう問いかけをしたら、空中に浮かぶ風船を描いて自分のこころを示す方もいましたし、その風船に紐をつけて漂ってはいるが飛んでは行かないという人もいました。こころを段ボールの箱に例えて、その箱にたくさんの穴を開けたり“ぼこぼこ”にして、これが自分のこころですといった方もいました。あちこちから叩かれてこころが凸凹になり穴まで開いてしまったというのです。
なかには鎧甲をまとった人を描き「このなかにいるのが自分です」といい、自分のこころはがっちりと鎧で守っていることを示してくれました。この方はこうでもしなければ、自分のこころを守れないといい、自分のこころの弱さを認めながらこころについて語ってくれました。絵に描くことはできないがといって粘土をもってきて「これが自分のこころです」と言った人もいました。格好良くいえば「可塑性に富む」と言えるのでしょうが、周囲に合わせて自分のこころを変えていくというように解説をしてくれました。
こころを知る手がかりとしてさまざまな心理テストが工夫されていますが、バウムテスト(バウムはドイツ語で「木」の意味です)のように、紙を渡して「ここに木を描いてください」という指示をします。たわわに実がなる木を描く人も、葉っぱが1枚付いているだけの木を描く人も、太い幹を描きその根っこまで描いてくれる人もいます。それぞれが自分がイメージする木を描いているのですが、そこには自分が投影されています。
第5回 「こころ」は三角錐
30歳代後半に琉球大学教育学部教授になってしまった私は、学生に人間のこころをどのように伝えるか悩みました。そこで思い出したのは患者さんに「なぜこころの病いに陥ったと思うか」と問いかけ、患者さんに「こころは三角錐」を示して「この三角錐が倒れそうになるのはどういうときだと思う?」と問いかけていたことです。それはなぜこころの病いに陥ったかを考えてもらうためでした。そしてそのとき患者さんへの説明として使ったのが「こころの三角錐」でした。
図1を見てください。これがこころの三角錐です。十分な体積があって底面が広い三角錐はどっしりと立っています。こころの側面である「知」「情」「意」は、物事をしっかり考える力「知」と相手を思いやることができる「情」、それになにかをしたいと考えている「意」がバランスよく配分されているとこの三角錐は真っ直ぐに立っています。底面が広いということはしっかりとした「自分らしさ」をもっているということです。もちろん三角錐の体積が大きいということはこころが豊かであると言えますから、どっしりした真っ直ぐなこころとは、こころの豊かさがあるというだけでなく、知・情・意のバランスがとれていないとこの三角錐は斜めになってしまうし、底面の自分らしさが広くないとふらつきやすいのです。言い換えれば、すぐにも倒れそうなこころとは、知・情・意のバランスが悪いこころですし、こころの豊かさが十分であるように見えても自分らしさをもっていないひとのこころは倒れやすいと言えるのです(図2)